埼玉県幸手市商工会青年部

 


2008年10月29日

 幸手今昔物語#8『江戸百万の人達のために・・・』

Filed under: 幸手今昔物語 — Maki@administrator @ 7:58 PM

 その昔、お米は税金のような物であり、石高が地域の大名の力を示すものであった。と同時に、人々の日々の生活にはなくてはならないものであった。

 江戸幕府は、利根川の治水による流路変更により流れが変わった古利根川に対して、万治三年、伊奈半左衛門に開削を行わせた。これが今の葛西用水であり、現在でも埼玉県東部低地の大切な用水として利用されている。

 地元では通称「樋の上・ヒノエ」と呼ばれているが、正式名称は「琵琶溜井」である。その名の由来は、溜井を作った当時、その形が「びわ」に似ていたからだという。
 名前一つをつけるにしても、先人の方々の「心のわびさび」を感じる。

昭和53年頃

平成20年現在


2008年8月3日

 幸手今昔物語#7 『八百万の神の国』

Filed under: 幸手今昔物語,新聞連動 — Maki@administrator @ 11:27 AM

古来より、日本では伝統的な神祇信仰と大陸から伝来した仏教が混淆した結果、神仏習合という宗教現象が生まれ日本の歴史上長く定着したものであったが、文明開化を迎え神仏分離が行われた結果廃絶に追い込まれたお社やお寺、社名変更された等、悲しい過去を辿って今に至る。

幸手市においても文政年間には百三十八あった神社総数が、明治九年には百十一となっている。

そして今日、幸手の総鎮守として、幸宮神社(八幡様)がある。

そもそも、大和の国の人々は常に感謝の気持ちを持って生活を営んできていた事は確たる事実である。

空の神、山の神、海の神、自らの身の回りの物にすら気持ちを込めてお祀りするありがたいと思う気持ちこそが、神国日本を支えて来たのだと考えられよう。

そして、いつまでも平和な日本を大切に・・・

文化を大切に守っていかなければいけない。

昭和6年頃 幸宮神社

平成20年 同じ場所から
 
 


2008年7月3日

 幸手今昔物語#6 『読み・書き・算盤』

Filed under: 幸手今昔物語 — Maki@administrator @ 9:20 AM

江戸時代各所にあった寺子屋、地域の子供達に生活の上で必要な事柄を教えていた。

平須賀にあった「満願寺」で、文久三年に「手習教訓状」という勉学の姿勢を説いたものが文献として残されている。現在の学校教育の基と言っても過言ではないだろう。

現在の学校教育制度の始まりは、明治五年に発布された「学制」に溯る。当時幸手市内においても、明治六年までには幾つもの学校が出来た。幸手学校(現・幸手小学校)もその中の一つである。市内でも最も歴史のある一三七年の伝統を育んできている。時代の流れと共に教育内容は変貌を遂げてきたが、先生を師と仰ぎ、子供達の笑顔と安全を地域の人々が一丸となり協力し合って見守っていくという事だけは、いつまでも変わってはならないものだと思う・・・。

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明治11年 幸手学校 旧幸手劇場駐車場付近

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平成20年現在 幸手小学校


2008年5月19日

 幸手今昔物語#5「幸手駅」

Filed under: 幸手今昔物語 — Maki@administrator @ 10:10 AM

文明開化の中の幻そして・・・

新世紀となり、近代国家となった日本。人の足となるものが急速に変化していった。

鉄道の開通である。

明治十八年に大宮―宇都宮間が開通した路線から外れた後も、幸手市には地理的重要性があり、明治後期には幸手を経由地とする鉄道計画が五路線もあった。熊谷市から千葉の佐倉市、栃木市から杉戸町、久喜市から土浦市、熊谷市から八日市場市、東京押上から久喜市、、、かなわぬ夢であった。

 大正期においても、なかなか幸手に鉄道は実現しなかった。待ちに待った昭和四年、東武鉄道が日光線を開通して駅が出来て幸手にも明るい光が灯る。

 そして平成の今、駅前開発として幸手駅前広場が出来上がった。これからの未来を明るく照らすために・・・。

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昭和4年

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平成20年現在


2008年2月29日

 幸手今昔物語#4「幸手市商工会」

Filed under: 幸手今昔物語 — Maki@administrator @ 12:00 AM

昔々、宿場で大いに賑わった幸手宿、、、、、

大政奉還があり、明治という近代国家になったばかりの頃、全国の先駆けとして、埼玉県下では一番先に幸手市商工会が設立された、時に明治二十四年のことである。

設立当初から「本町商工業者の団結を図り、以て本町の発展に努むる」ことを目的とし、道路、橋梁の改修や共同大売り出し、行幸桜(現在の権現堂堤の桜)の宣伝や名士の講演会等を事業活動としていた。

平成の今に商工業を業いとして任う我々も、日々この精神を忘れてはならない。幸手の火を燈し続けて次の世代に引き継ぐ事が使命であろう。

先人達が残してくれた偉大なる功績のためにも、、、konjyaku04b
明治42年共同大売り出しの様子

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平成19年歳末大売り出しの様子


2008年1月1日

 幸手今昔物語#3「ネオンアーチ」

Filed under: 幸手今昔物語 — Maki@administrator @ 4:24 PM

将軍様がお通りになる御成街道、庶民が行き交う日光道中、、、

江戸期、その二つの街道の合流地として繁栄した幸手宿、多くの旅籠が並び、飯盛女などの風俗や様々な文化の栄辱があったようである。昭和二十八年に発表された幸手音頭の四番の歌詞に「ネオンの華の街」と歌われている事を思えば当時の幸手の絶大なる経済力を感じる。

昭和三十三年には商店街にネオンアーチも設置され、二キロ先からも判る!と明るい街建設に湧いていた。
これからも、私たちの手で幸手の灯を守っていかねばならない。

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昭和42年頃

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平成20年現在、同じ場所から


2007年11月1日

 幸手今昔物語#2「消防団」

Filed under: 幸手今昔物語 — Maki@administrator @ 4:12 PM

明暦の大火後、享保三年(1718)江戸南町奉行の大岡越前守忠相が町火消し「いろは四十七組」を組織した、時に八代将軍徳川吉宗の時代であった、消防団の始まりと言えよう。「自らの町は自らで守る」そんな意識の高まりであろう。
江戸当時は破壊消火という方式で、主に鳶職の人々が担っていたと伝えられている。時代が移り、消火の方法も放水等に変わり、技術の進歩と器具の進化により、日本の防災力は世界屈指となった。
昭和四0年代中期まで、幸手市には消防署が無かったため、消防団が防災の要となっていた。
時代は移り変わっても、火消し魂は永遠に受け継がれていく。

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昭和30年頃

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平成19年現在、同じ場所から


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